キラキラネーム [日記]

キラキラネームをどこまで認めるか法制審議会の戸籍法部会で議論されているという。当然のことだ。
研修をやっていて困るのは、参加者の名前の中でキラキラネームが読めないことだ。
なかには想像できるのもあるが、どうしても本人に聞かないと読めない名前がでてくるのだ。親は良かれと思ってつけたのだろうが、きちんと呼んでもらえないのはどうしたものだろう。本人だって困るのではないか。それとも喜んでいるのだろうか?

コメント(0) 

スモークツリー [季節]

こんな名前の花があるとは聞いていたが、身近にあるとは知らなかった。
すぐ近くにある浄土真宗のお寺に植えてあった。
そして、見た瞬間よくぞつけたものだと思った。その姿が煙に見えるところからきているのだろう。まさにスモークだ。
・もやもやの解けぬ世の中煙の木


コメント(0) 

池上金男「鉄血の島」(最終) [日記]

1966年(昭和41年)8月。
佐藤栄作は、日本の現職総理として戦後はじめて沖縄の土を踏んだ。
そして「沖縄が祖国に返らない中は、日本の戦後は終わらない」という声明を発表した。
総理の声明は、「戦後20年、日本人の心の奥底にくすぶり続けた悲願の火を、あかあかと燃え上がらせた。沖縄を、日本の手に取り戻そう。その炬火は、やがてアメリカを揺り動かすに至る」

しかし沖縄では、保守と革新の政争の嵐が吹き荒れていた。
保守陣営は、沖縄の早期返還を目標に掲げ、革新陣営は、返還時の基地即時撤廃をスローガンにして譲らなかった。
松本は、三選された佐藤の意を受けて沖縄に飛んだ。
琉球政府の一室に、松本は政府主席の屋良朝苗と、革新統一の喜屋武真栄を招き、三者会談を開いた。松本は、沖縄の指導者2人に、火を吐く熱弁を振るった。
「敗戦によって失った領土を、話し合いで取り戻す、というのは、歴史上稀有のことである。不可能に等しいその企てが、いま実現しかけている。戦勝国アメリカは、いまは同盟国となった日本の悲願を黙し難く、極東の平和維持体制を堅持するため、沖縄返還交渉に耳を傾けつつある。
そのとき、実現のまったく不可能な、基地撤廃を条件に、沖縄住民が激しい闘争を展開し続ければ、アメリカの意向がどう傾くか、それは火を見るより明らかである。・・・
私はあんた方の主義主張の是非を論じようとは思わない。ただこの機運を逃すな、逃してはならぬといいたいのだ。戦後二十数年、あんた方は異民族支配の下で、筆舌に尽くせぬ苦難を嘗め続けてきた。私をはじめ日本国民は、その沖縄返還の悲願を、一日として忘れたことはない。その全国民の悲願と、日本と沖縄の百年の大計のため、小異を捨てて、沖縄返還交渉を支援してくれ。それが私の生涯の願いだ。」
ただの政府関係者の説得なら、屋良も喜屋武もいうべき事は山ほどあった。しかし、この男には勝てない。無縁の沖縄に、二十余年、愛情をそそぎ尽くしてやまない男の説得に、二人は固く手を握り合った。

松本から委細を聞いた佐藤は、1969年(昭和44年)11月、米大統領ニクソンとの会談に臨んだ。会談後に発表された日米共同宣言は、1972年(昭和47年)、核抜き本土並みの返還を約束した。
不可能は可能となった。これは奇跡といえる。日本国民は容易にそれを是認しようとしないが、世界はその奇跡に眼を見張った。それが後に、佐藤栄作に贈られたノーベル平和賞で証明される。

松本は、遂に偉業を成し遂げたのだ。



コメント(0) 

池上金男「鉄血の島」(4) [日記]

1964年(昭和39年)、日本に大きな出来事が発生した。戦後の復興を象徴するかのように東京オリンピックが開催された。その年中央政界に異変が起こった。
時の総理、池田勇人が健康の不調から築地の癌研に入院したのだ。当然、総理の座は誰かに譲らなければならない。池田は共に吉田茂に私淑し、その指導を受けた佐藤栄作に禅譲したいと思った。しかし、池田派の後継者は前尾繁三郎であった。前尾は京都出身の政治家である。そこで、佐藤はある人を介して松本に「前尾に出馬しないよう説得して欲しい」との相談を持ちかけたのである。
松本はその人と前尾に会い「天下の情勢があなたを望んでいないのだ。」として「北方領土問題それに沖縄返還問題への取り組みをするためには佐藤しかいない。国を思うのなら身を引いてほしい。」と説得し前尾もそれに同意した。
その報告をするために佐藤に会った松本は「私に一つお願いがある。聞いて貰えますか」
佐藤は顔色を変えて聞いた。
「総理に就任したら出来るだけ早い機会に沖縄を訪れ、英霊を慰めると共に、他国の施政権下にある沖縄同胞の実情を見ていただきたい。沖縄が祖国に返るまでは、戦後という言葉は終わらない」と。

コメント(0) 

池上金男「鉄血の島」(3) [日記]

松本は戦後、軍需物資を調達しながら京都で占領軍向けにお土産品の店をはじめ、飲食店、料理旅館、レストラン、喫茶店、食堂、キャバレー、バーなどに手を出し、商売はいずれも大当たりした。
京都の前田家別邸を手に入れ、占領軍(米第六軍司令部)によりそこが長期駐留の施設として接収されたときから担当のブレークリー少佐と懇意になる。
その前田別邸はその後、西武グループ創始者堤康次郎に売却することになった。

松本は、商売の傍ら、心を許す同士を結集して「日本民主同志会」(日民同)を結成した。そして志業の精神のもとに、運動の目標を「国家に殉じた英霊の慰霊」と「沖縄の本土復帰」においた。

その松本が、1948年(昭和23年)10月、仲間4人と一緒に一艘の機帆船をチャーターして、占領下にある沖縄に上陸した。掲揚を禁止されていた日章旗を掲げて上陸した。占領軍との間にひと悶着あったのは言うまでもない。
72時間の滞留期間が言い渡され、船に積んできた鞍馬石に「弔」の文字を彫った弔魂碑は海中投棄と決まった。情報将校ハドレー少佐の監視の下に碑を入れた木箱は海に沈んでいった。
しかし、この木箱はその日のうちに糸満漁師の手によって引き上げられ、沖縄戦最大の激戦地、嘉数高地に安置された。

沖縄はアメリカの占領下に置かれ、祖国日本に倍する苦難の道を歩み続けた。1951年(昭和26年)、対日講和条約が締結されたが、米国の沖縄施政は軍政から、民政長官による米民政府に替わっただけで、その内容はほとんど変化しなかった。
その間にも松本は、毎年のように慰霊の旅を続けた。
そして、「米軍の沖縄戦犠牲者に対する扱いは、徐々にではあったが変化した。山間に、野辺に、散乱したままの遺骨を、一片だに拾うことを許さなかった米軍が、いつか遺骨を集めて無縁塚を築くことを許し、更にそれを祀ることも許可するようになった。」のだ。
あるとき、松本は巡礼団とともに沖縄に渡り、戦跡をめぐるうち、嘉数の丘で砲弾に砕け散った石のかけらを拾った。
沖縄の土は本土に持ち帰れない。ここは異国の支配する島だった。検疫がそれを許さない。だから石を拾ったのだ。そして涙を流して次のような歌を詠んだ。
  遺骨だにまだみぬ人にたのまれて
   泣き泣き拾う沖縄の石
後に沖縄護国神社が建てられたとき、その境内に鳥居(松本が懇願して、京都東山の護国神社にあったものを献納)と併せてこの歌を刻んだ松本の歌碑が建てられた。

コメント(0) 

池上金男「鉄血の島」(2) [日記]

物語は松本明重という人物を中心にして展開される。松本明重(1914年愛媛県上浮穴郡面河村に生まれる)は、近衛首相の密命で日中戦争の拡大を防止するため和平工作の一員として上海に松本機関を設置し、工作に当たりながら軍需物資の調達に当たっていた。和平工作は軍部の妨害で頓挫する。そして、松本は上海の憲兵隊に捉えられ4年の懲役刑を受けることになった。作者は、松本が仮出所(広島刑務所)前に大本営神坂中佐宛に書いた「沖縄戦・私考」を「来るべき沖縄戦に関し、松本が抱懐する遊撃戦法を刻明に記した戦術論であった」と断定している。そして獄中から出した檄文に応じて、この松本機関所属の63名が沖縄戦のさなかに沖縄防衛のために馳せ参じ、神坂挺進隊が結成された経緯も紹介している。主たる任務は、米軍に対するゲリラ作戦と敵将を討つことである。

1945年(昭和20年)3月23日(前哨戦)および4月1日(上陸作戦)、米軍は重装備した45万人の圧倒的な兵力をもって沖縄進攻を開始した。これを迎え撃つのは、沖縄第三十二軍であった。7万7千の陸海将兵、それに2万5千の沖縄義勇兵であった。壮絶を極めた嘉数高地における日本軍の死力を尽くした抵抗は米軍に大きな損害を与えたが、米軍の物量作戦の前にはいかんともしがたく、日本軍は後退を余儀なくされる。そして、最後の決戦といわれた首里攻防戦でも敗退し、ここに沖縄戦の敗戦は決定的となった。
神坂隊もゲリラ戦を挑むたびに隊員を失い、敗走するうち最後には7名にまでなっていた。そして、真栄里の台地に車を停めた米将軍をめがけて重砲を発射したところ、炸裂した砲弾により将軍は戦死した。将軍というのは米軍最高司令官バックナー中将であった。
神坂挺進隊の任務は終わったが、6月23日、牛島軍司令官・長参謀長の自決により軍としての組織的戦争は終わった。
神坂中佐は残った隊員に対して解散を宣言し、自らは無名洞窟に入って暗闇に消えていった。
この戦争で、沖縄全島は焼土と化し、本土出身将兵および沖縄義勇兵あわせて戦死10万9千余、非戦闘県民約10万の生霊が祖国に捧げられた。

コメント(0) 

池上金男「鉄血の島」について [日記]

明日5月15日は、沖縄が日本に復帰して50年になる記念すべき日だが、基地問題に象徴されるように、必ずしも手放しで喜んでいい状態になっていない。
私は、ちょうど10年前に池宮氏の書かれた「鉄血の島」を読む機会があり、その時に書いた書評があるのに気づいて、読み返してみて、皆さんにも一緒に沖縄問題を考えてもらいたいと思ってここに何回かに分けてそのまま掲載したいと思います。
「鉄血の島」池上金男
池上金男の名前は知らないが、池宮彰一郎なら知っている、という人が多いのではないか。実は私もその一人です。
今回、池宮氏が本名(池上金男)で書いた“沖縄に燃えるいのち・・・”「鉄血の島」(東洋堂、現在の万葉舎)を読むことになった。作者は1940年(昭和15年)に満州にわたり、現地徴集により陸軍に入隊。その後、南方戦線を経て46年に復員したという経験をしている。
そして戦後、平和ボケした日本人の姿をみて、「あの戦争にはどのような意味があったのだろう?」という疑問を抱き続けた作者が、一人の人物(松本明重)を登場させることによってその思いを吐露しているように思われる。
それは、あえて発行日を終戦記念日(昭和60年8月15日)にしたのもその意図があってのことだったろうと思われる。その意味では、この書は作者の止むに止まれぬ日本人に対する警鐘の書である。
最近になって、尖閣諸島の国有化をめぐって日中、日台の間で摩擦が生じている。問題の根底にあるのは歴史に対する認識である。日本政府は「尖閣諸島は日本の固有の領土であり、領土問題は存在しない」という立場を取っているが、中国政府は「本来中国の領土であり、日本が奪い取ったものである」と反論している。この問題を歴史的に検証する必要性が生じている時期だけに、日本人として是非読んでおきたい本だと思いたい。特に政治家にはとって必読書だと言いたい。
池上は、これを単なる歴史小説に終わらせないで、戦争告発書に近い形式をとっている。そのため、日中戦争から沖縄戦にいたるまでのプロセスを膨大な資料にもとづいて記そうとしたところは、作者の戦争観が見えてくるところである。
この物語を書くために、池上は資料の蒐集や翻訳、整理、そして現地調査に1年半近く費やして構想を練っていて、できるだけ史実に忠実であろうと心がけている。そのために作者の頭の中には、時間の経過(時間軸)とストーリィ(横軸)を組み合わせてさまざまな筋書きの可能性があったに違いない。そしてたどり着いたのが沖縄戦―基地化―返還というストーリィだったのであろう。
現在の日本の繁栄は沖縄の犠牲の上に成り立っている。沖縄が本土並みに返還されて繁栄してこそ犠牲が報われるときである、ということを訴えたかったのではないか。
そのために、池上は沖縄戦の行方を見通していた松本という人間を登場させ、次のように言わせている。そして、「もしも」があれば沖縄戦は違った局面を迎えただろうと書きたかったに違いない。
まさに、沖縄戦こそ回天の好機であり、大東亜戦争の最後の天王山であった。大本営の老練な将師も優秀な参謀も、その好機を見誤って見損じた。本土を死守するためにのみ眼を奪われ、沖縄はその本土決戦の準備のための時間稼ぎに利用しようとした。
「本土決戦」と「沖縄持久戦」の二本立は、諺通り「二兎を追うものは一兎も得ず」となったのである。
本書が出版されたのは1985年(昭和60年)。それから時間が経過しているがこのまま眠らせるには惜しい578頁にもなる大作である。小説というからには創作が混じっているだろうが、どこまでが史実でどこから創作かを見分ける力は私にはない。そして、これを読みこなすには相当の努力と忍耐力が必要だと付け加えておきたい。
以下に、物語のあらすじを添えておきたい。(続く)

コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。