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居場所を変える(1) [男の居場所]

 人は一生をかけて自分の居場所を変えていく。
幼児の時は父母のいる家庭。学齢期になると学校。社会人になると会社や官公署、団体など。しかし、そこに一生いるわけにいかない。ある年齢に達すると定年退職という儀式が待っている。それから多くは家庭に入るが、そこは心理的には必ずしも自分の居場所にならない。
ここでいう居場所とは、“快適ゾーン”すなわち、そこにいれば快適で、自分らしく振る舞える居心地の良いゾーンだという意味だ。
快適ゾーンだから、人は外にいるとそのゾーンに帰りたいと思うし、また帰っていく。
私たちは、定年退職後は家庭に入るが、そこが本人の快適ゾーンという意味での居場所になっているのだろうか?

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家庭は「快適ゾーン」か?(2) [男の居場所]

快適ゾーンとは、そこにいると快適なためにずっとそこにいたいと思う領域である。
それは“自分はこういう人間である”と思っている「自己イメージ」に合致しており、その自己イメージ通りに行動できるということである。自然体で無意識のうちに自分らしく振舞える居心地の良い領域である。
居心地が良いものだから、人はそこに居続けたいと思うものだ。そして、そこから出て行けば、居心地が悪くなって、もとの快適ゾーンに帰りたいと思うものだ。
一般的には、私たちは結婚後はずっと家庭と職場を両立させているが、定年までの長い期間の家庭と定年後の家庭は同じものだろうか?


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男の居場所(3) [男の居場所]

 働いているときは、寝る時間と通勤時間を除けば、家庭より会社にいる時間のほうが多い。しかも仕事は慣れてくるとそれ自体が楽しく、職場が快適ゾーンになる。そこに行けば机があり、仲間がいてやるべき仕事が待っている。それをこなしている限り、誰からも文句を言われることはない。だから少々の体調不良のときも無理をしてでも会社に出ようとする。
そして仕事が済んで帰るのは家庭だが、そこは仮の宿のようなもので、家族、特に配偶者とじっくりと向き合うことはない。
家に帰れば、食事をし、時間があれば新聞を読んだり、テレビを見てしまう。夫婦の会話はあまりない。
職場の仲間や部下たちとは、仕事を通じていろいろ話し合って、彼らがどんなことを考えているかは手に取るようにわかるが、肝心な配偶者のことは案外解らないものだ。むしろ解ろうとしないというのが正直なところだろう。


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定年退職(4) [男の居場所]

定年は必ずやってくる。どんなにそこに居たくても、その日を境にして座るべき机はもうない。身分証明書を返却し、ささやかな送別会を催してもらい、花束を手に家路につく。
その時は、勤め終えたという達成感と、これで自由になれるという開放感をもって家の玄関に入ることになる。配偶者からは「長い間ご苦労様でした!」という言葉をかけられ、好きなお酒と料理で慰労されることになる。
退職後しばらくの間は、自由で何もしなくてよい時間を楽しむことができるし、配偶者も一緒に過ごせることを喜ぶものだが、問題はその後にやってくる。

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宙ぶらりん(5) [男の居場所]

定年になっても、朝になるといつもの時間帯に目を覚まし起きようとするが、「そうだもう会社に行かなくてもよいのだ」と気づいてまた一眠りすることになる。
起きたときそこには配偶者しかいない。その配偶者を相手に会社で仲間や部下たちと同じように会話をし、一緒に何かに取り組むことができるだろうか。考えて見れば、結婚以来、同じ目的をもって配偶者と取り組んだことはない。子どもの教育も配偶者に任せてしまっていた。
配偶者との対話はとりとめのないものになってしまう。
食事の時間も定かではないし、食事時の会話も弾まない。

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つかの間の開放感(6) [男の居場所]

定年後のしばらくの間、自由になった開放感に浸る。まったくの自由の身だ。24時間すべてが自分のものとなる。何をやってもよいのだ。しかしそれもつかの間のことだ。
定年を境に名刺はなくなり、自分を証明するものは何もない。自分とは何者だろうという問いかけが始まるのがこの時期だ。自分だけが頼りだが、現実には頼りない自分がそこにある。
何かをしたいのだが、何をしていいかわからない。
会社に行けば“やるべき仕事”があった。しかしもう誰も指示してくれる人はいない。逆に指示してやらせる人もいない。
そのとき、身近にいるのは配偶者だけだが、その配偶者との会話が続かないのだ。

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空白の期間(7) [男の居場所]

 会社に行けば、やるべき仕事が与えられる。自分とは何者かを考えることもなくある程度快適な時間を過ごすことができた。しかし、定年後は時間だけたっぷりとあっても、誰もやるべきことを与えてくれないのだ。何をしていいか解らず途方にくれることになる。
そこで気づき始めるのだ。今までの人生は“与えられた人生だった”と。周囲(会社)の期待に合わせて生きてきたが、その期待がなくなったとき、期待するものは自分自身を置いて他にいない。自分は自分の人生に何を期待すればいいのだろう?自分はその時々でベストを尽くして生きてきたつもりだが、所詮自分のやりたいことではなく、他人の期待に応えてきただけにすぎないのだ。
それに気づくことはきついことだが、それなくしては新しい人生は始まらないのだ。


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