新規立ち上げ [日記]

今日はじめてこのブログを立ち上げました。
もともと技術オンチの私には手の届かないことでしたが、藤堂剛さんのお陰で日の目を見ることができました。
これから頻繁に(できれば毎日)、自分の思いを書いてみたいと思っています。
私が今現在やっていることは、夢の実現をサポートすることです。
日本では、実現しないからこそ「夢」といいますが、アメリカでは、Dreams come true! といって、実現するものだと受けとめられています。そして、アメリカンドリームを実現する人を尊敬の念をもって称えます。今日誕生するオバマ新大統領はさしずめこの体現者といえましょう。この違いを単に国民性の違いとして片付けてしまうと先に進めませんが、考え方の違いと捉えれば、われわれにも可能性があります。これから、それに取り組んでみたいと思います。乞うご期待!


竜馬がゆく [日記]

長崎のランタンを観に行ったついでに竜馬ゆかりの地に足をのばしてきた(今日からブログ再開)。竜馬は長崎港を一望できる風頭山に日本最初の貿易会社である亀山社中を設立し、仲間達と開国後の日本の将来を語り合ったにちがいない。竜馬通りを通って山頂にたどりつくと、そこには竜馬の銅像がそびえるように建っており、その側に司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の一節を彫った石碑が立っていた。
「船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、『長崎はわしの希望じゃ』と陸奥陽之助にいった。『やがては日本回天の足場になる』ともいった。」
しかし、その回天の日を見ることもなく、竜馬は2年後に散ってしまった。

イチロー選手 [日記]

イチロー選手がついに張本勲選手のもつ日本のプロ野球記録3085安打に並んだ。しかも満塁ホームランというおまけまでついての達成だ。今年のWBCの決勝打といい、しっかりとお膳立てが揃っていて打つべきときに打つのだから神がかり的と言われるのも不思議ではない。
イチロー選手には野球に対するストイックなまでの取り組みのイメージがつきまとうが、自分自身に対する高いハードル設定と周囲の期待の高さからくるプレッシャーは大変なものだろう。それがWBC後に胃潰瘍で戦列を離れたことからもうかがうことができる。
イチロー選手には「記録」が似合っている。今年は9年連続200本以上安打の全米新記録に挑むことになる。さらにはそれから先どこまで記録を伸ばし続けるのか。見るほうは楽しみだが、やるほうも楽しみながらやって欲しい。まだ35歳だ。

ものづくり日本の復活 [日記]

 昨日は岐阜県各務原市にある会社で1日研修(8:30-16:30)を行ってきましたので、その報告をしたいと思います。
この会社は、新幹線の先頭車両の鼻の部分(?)とか、自動車のボディ、さらには飛行機の部品などを製造する中堅優良企業であるが、「今回の不況で工場の操業短縮のやむなきにいたった。その間を利用して社員教育を実施することにした」という社長さんの経営感覚は素晴らしいことだと思った。(今回政府が決定した「緊急雇用安定助成」制度を活用)。
参加者は45人で、それに社長、常務のお二人がオブザーバーとして熱心に参加された。今回は5-6講座が組まれているようだが、それも社員の声を聞かれて決められたとのこと。
私に与えられたテーマは「仕事で成果を出せる『楽観思考』の習得と実践」。「今のような厳しい経済環境の中で、落ち込みがちな個人の心を、またグループの心を奮い立たせて、将来を見据えた経営をやっていく、そのためには社員を巻き込んで一緒に向き合っていくことが大切だ」という社長さんの考えを後押ししたいという気になりました。
この会社が今の試練を潜り抜けたとき、一回り大きくなって飛躍するイメージが目に見えるようです。
なお、明日から21日まで海外(フランス)旅行のためこの欄を中断します。

父の日 [日記]

昨日は父の日。
いつ頃からこのような風習ができたのか知らないが、おそらく「母の日」があって父の日がないのはおかしい」ということで商売熱心な人たちが考え出した「日」なのだろう。
昨日の午前中、ドアホーンが鳴って外へ出てみたら、「父の日の贈り物です」と言って、花屋さんが「花」を届けてくれた。子ども(嫁)からのプレゼントだ。カーネーションに向日葵、それにいくつかの花が束ねられていて、早速花瓶に入れる。きれいだ、それにうれしい。早速お礼のメールを入れるが、孫の声を聴きたいので電話もする。ささやかな喜びだ。
ひるがえって、自分は親に感謝の印に何か贈ったことがあるだろうか?と記憶をさかのぼるが、思い出せない。父が亡くなって今年は七回忌を迎えるが、感謝の気持ちをこめて墓前に花を手向けたい。

加齢の意味 [日記]

以前、本で読んだか、人に聞いたのか定かではないが、次のようなことだったと思う。
人は年をとるにつれ、目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、固いものが噛めなくなる。それは、嫌なものは見たくない、嫌なことは聞きたくない、嫌なものは食べたくない、ことの表れなのだ。
言われてみると確かにそう思えるふしがある。人は年をとると、社会から遠ざかっていく。ときにはほぼ強制的に遠ざけられることになる。そして、非生産年齢人口とか従属人口などといってわきに置かれてしまうのだ。
そのような人の生活空間は狭くなり、生きていることに現実感がなくなっていく。そのようなときに、人の心はどこに向かうのだろうか。明らかに過去しかない。過去の思い出にふけって過去を浮遊しているのだ。決して未来ではない。私たちはよく「他人と過去を変えることができない」という言い方をするが、過去に生きている人には「過去が現実」なのだ。そして、よい思い出だけを取り出せば、つまり、過去の見方を変えれば、過去を変えることができるのではないか、と思った次第です。

若い女性の流儀 [日記]

今日面白い経験をしたので紹介したい。
私は、毎朝6:19分発の普通電車で通勤することにしている。この時間帯だとゆっくり座って本も読めるので、動く書斎のようなものだ。ところが今日は、この電車の2分前に発車する急行電車に、1人ぐらい座れそうな空間があったので、つい飛び乗ってしまった。そこには若い25歳前後の女性が座っていて、少しつめてもらうと座れるのだ。女性は膝の上に大きなボストンバッグを横向きに抱えていて(両サイドにはみだしていて)、それを縦にするか棚の上に乗せればすむことだ。そこで、「少しつめてもらえませんか」と言ってみたが、女性はまったく反応せず、ひたすら自分の顔と向き合って化粧道具を手に化粧に余念がないのだ。
両サイドの男性が気づいて、少し空けてくれたので、もう一度言ってみたがそれでも見向きをしないのだ。そして、化粧がすむと、今度は携帯電話を取り出して遊びだした(?)のだ。
これが"今の若者”に共通する資質なのだろうか?
私は次の駅で下車し、次に来るいつもの普通電車に乗ることにした。


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