池上金男「鉄血の島」(2) [日記]

物語は松本明重という人物を中心にして展開される。松本明重(1914年愛媛県上浮穴郡面河村に生まれる)は、近衛首相の密命で日中戦争の拡大を防止するため和平工作の一員として上海に松本機関を設置し、工作に当たりながら軍需物資の調達に当たっていた。和平工作は軍部の妨害で頓挫する。そして、松本は上海の憲兵隊に捉えられ4年の懲役刑を受けることになった。作者は、松本が仮出所(広島刑務所)前に大本営神坂中佐宛に書いた「沖縄戦・私考」を「来るべき沖縄戦に関し、松本が抱懐する遊撃戦法を刻明に記した戦術論であった」と断定している。そして獄中から出した檄文に応じて、この松本機関所属の63名が沖縄戦のさなかに沖縄防衛のために馳せ参じ、神坂挺進隊が結成された経緯も紹介している。主たる任務は、米軍に対するゲリラ作戦と敵将を討つことである。

1945年(昭和20年)3月23日(前哨戦)および4月1日(上陸作戦)、米軍は重装備した45万人の圧倒的な兵力をもって沖縄進攻を開始した。これを迎え撃つのは、沖縄第三十二軍であった。7万7千の陸海将兵、それに2万5千の沖縄義勇兵であった。壮絶を極めた嘉数高地における日本軍の死力を尽くした抵抗は米軍に大きな損害を与えたが、米軍の物量作戦の前にはいかんともしがたく、日本軍は後退を余儀なくされる。そして、最後の決戦といわれた首里攻防戦でも敗退し、ここに沖縄戦の敗戦は決定的となった。
神坂隊もゲリラ戦を挑むたびに隊員を失い、敗走するうち最後には7名にまでなっていた。そして、真栄里の台地に車を停めた米将軍をめがけて重砲を発射したところ、炸裂した砲弾により将軍は戦死した。将軍というのは米軍最高司令官バックナー中将であった。
神坂挺進隊の任務は終わったが、6月23日、牛島軍司令官・長参謀長の自決により軍としての組織的戦争は終わった。
神坂中佐は残った隊員に対して解散を宣言し、自らは無名洞窟に入って暗闇に消えていった。
この戦争で、沖縄全島は焼土と化し、本土出身将兵および沖縄義勇兵あわせて戦死10万9千余、非戦闘県民約10万の生霊が祖国に捧げられた。

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