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囚人のジレンマ(1) [ゲームの理論]

ゲ-ムの理論に「囚人のジレンマ」というモデルがあります。簡単に紹介すると次のようになります。
共犯の容疑者が捕らえられ、別々の独房に入れられて取り調べを受けます。検事は二人に2つの選択権(自白および黙秘)があることを告げます。そして刑は次のようになります。
まず①二人とも黙秘すれば、二人は3年の刑となる。②一方が自白し、他方が黙秘したときは、前者は1年、後者は10年の刑となる。③二人とも自白したときには、5年の刑となる。
さて、二人はどのような行動を選択するでしょうか?仲間にたいする信頼と疑い、黙秘と自白をめぐって、心のなかで大きなジレンマにおちいるにちがいありません。
二人がともに黙秘すれば、3年という軽い刑ですみますが、相手が黙秘してくれさえすれば、自分が自白してしまえば1年という最も軽い刑ですむはずだ。どんなことがあっても10年だけはご免蒙りたい。そこで裏切りへの誘惑が心をもたげます。 このことは、二人に共通していますので、結果として二人はともに相手を裏切って自白してしまい、より重い刑である5年が科せられることになるのです。
これが「囚人のジレンマ」といわれるゲ-ムのあらましです。
そして、お互いに協調すればより良い結果がえられるのに、自分だけの利益を考えて行動すると、ともに不利益を蒙ることになる。
--これが「囚人のジレンマ」の教訓です(続く)。


囚人のジレンマ(2) [ゲームの理論]

 ゲ-ムの理論では、もともとお互いに利益が対立するという前提にたっています。すなわち、一方が利益を得た分だけ、他方が損をするというものです。
このようなゲ-ムは、ゲ-ムに参加している人たちの利益と損失を合わせるとちょうど0になりますので、「ゼロサムゲ-ム」と呼ばれています。囲碁、マ-ジャン、トランプなど私たちがふだん楽しんでいるゲ-ムのほとんどがこのル-ルになっています。
私たちは、このようなゲ-ムに慣れていますので、日常生活のすべてのことをそのようなル-ルで考えてしまいがちです。
これらのゲ-ムに限らず、たとえば入学試験、入社試験、昇進試験、学校での成績評価、企業での人事考課など、広い意味でこの考え方に立っています。そのために、自分の周りの人はみな自分のライバルのように見えてくるのです。
そして、競争することは当たり前のことである、その競争には勝たなければならない、負けては人生の落伍者になるという考え方が染み付いてしまっているのです。そのために、人は「勝ちー負け(Win-Lose)」に神経質な生き方をすることになるのです。


囚人のジレンマ(3) [ゲームの理論]

 私たちは、人間関係のいろいろな局面で「囚人のジレンマ」を感じながら生きています。そして、勝ち負けにこだわった生き方をしています。その結果、「勝ち負け」「勝負ありなし」という基準でものごとを判断することを当然のことのように受け入れています。
ところが、勝ち続けるのが難しいことが解っているものですから、「勝たなくても負けない」という(屈折した)生き方を選択することになるのです。
ただし、これでは自分の生き方として何か足りないということで、さらに「他人に迷惑をかけない」という新しい基準が追加されます。そしてこの2つのル-ルをもつことで、人は自分の人生の体面を保って生きてゆくのです。
「人をさしおいて自分が勝とうとするわけではない」「他人には迷惑をかけない」--このような生き方のどこが悪いのだ、他人からとやかく言われる筋合いはない--と言われれば、「悪いところはありません。ご立派です」と答えざるをえないでしょう。
でも、この生き方は間違ってはいませんが、どこかおかしいのです。何かが足りないのです。

囚人のジレンマ(4) [ゲームの理論]

「人に負けない」とは、その裏に「相手の出方を見て自分の行動を選択する」という意味が込められています。相手の出方が解らないかぎり行動に移らないのです。そして相手に合わせてしまうのです。そうすれば、勝たなくても負けることはありません。 しかし、人には相手の行動を見なくても、「自分はこうしたい」という思いがあるはずです。それを抑えて皆が「負けなければよい」という生き方をしたら、誰も自分から進んで積極的な行動をとる人はいなくなります。これでは、皆で負け戦をしているようなものです。
一方が勝てば他方が負ける、というのがゼロサムゲ-ムの生き方であるとしたら、両方とも勝つという非ゼロサムゲ-ムだってあるはずです。
「囚人のジレンマ」の例では、もう一つの選択肢がありました。黙秘することです。相棒を信じて黙秘すること、万一相棒が裏切って自白してもかまわない、自分の信念を貫こう--こういう生き方がありました。
「マイナスにさえならなければ」という生き方は、決して「プラスにはならない」ということを肝に銘ずる必要があります。

囚人のジレンマ(5) [ゲームの理論]

もう一つの「他人に迷惑をかけない」生き方について考えてみましょう。
意識的に他人に迷惑をかけるのは論外として、私たちはできるだけ他人に迷惑をかけないように努力することはできます。そのような生き方は、道徳的には当を得ています。しかし、意識的にそのような生き方をしても、私たちは、他人に迷惑をかける存在であることに変わりありません。
たとえば、電車に乗るためにきちんと並んで待つことは、他人に迷惑をかけることはありませんし、道徳的に見れば良い行為です。しかし、自分が座席に座った結果、一人立つ人がでることになれば、その人にとっては迷惑になります。もし、自分がそこにいなければ一人座れたという意味では迷惑な話です。このように、本質的に「人は、生きていることそれ自体が、他人に迷惑をかける存在である」のです。ゼロサム・ルールの話はすでにしました。私たちが生きていると、資源が有限な限り、必ず自分が手に入れただけのものを、手に入れられない人がいるということ、それがゼロサムルールのはずです。


囚人のジレンマ(6) [ゲームの理論]

したがって、私たちが子どもたちに教えなければならないのは、「本来、私たちは他人に迷惑をかけている存在である。だからお前も、他人の迷惑に耐えなければならないのだよ」ということになります。
他人に迷惑をかけるな、だけでは足りないのです。この教えだけを強調すると、迷惑をかけないように努力している人は、それをしていない人を見ると「けしからん」となってしまいます。そして、「なんで自分だけやらなければならないのだ」と考えるようになります。皆が同じようにしなければ不公平感をもってその行為をやめてしまうかもしれません。
そこには、他人に迷惑をかけている自分が見えません。他人に迷惑をかけている自分が許されるなら、他人も同じように許される。自分に向ける視線を他人に向ける必要があるということです。そして、そこから出てくるのが、感謝と思いやりのはずです。これが「お互いさま」ということだと思います。

囚人のジレンマ(7) [ゲームの理論]

しかし、それができる人は非常に少ないのだと思います。ほとんどの人は、自分がしている分だけ、他人にもして欲しい。つまり、自分の行為に対して同じだけの見返りを求めるのです。つまり「ギブ・アンド・テイク」の発想に立ってしまいます。
しかも、私たちは自分のことを好意的に見る傾向を持っていますから、自分がやっていることを過大評価し、他人がやっていることを過小評価するものですから、常に自分のほうが与えることが多いと思うものです。そして、自分はいつも損をしていると思っているのです。
だから、「他人に迷惑をかけない程度に関わっておこう、そうすれば文句を言われることはない」となってしいます。これで振り出しに戻ったことになります。
道徳的に生きるだけでは、足りないのです。それを通り越して共生(Win-Win)の積極的な生き方が求められているのです。


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