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日本の若者考 [現代の若者考]

                
先日のブログで、「若い女性の流儀」、「若い男性の流儀」を書いたところ、面白いから続けてみたら、というご意見をいただいた。あの話は、実は若い人たちの心理を描こうとしたものです。男女別々の現象というよりは、若い人に共通のもの(心理)としてシリーズで書いてみたいと思っています。
ところで、今の若者のイメージといえば、次の4点に集約することができます(それぞれのテーマの本も出版されている)。。
1.ケータイを手放せない
2.他人を見下す
3.就職して3年で辞めてしまう(7・5・3現象)
4.ゆとり教育
これらを取り上げながら、次回以降で若者の「青い鳥」はどこにあるのだろう、ということを書いてみたい。
なお、このブログを書き始めて、昨日でアクセスが7000を突破しました。読んでいただいた皆様に感謝します。

高校生の殺傷事件 [現代の若者考]

 また、高校生の殺傷事件が起こった。二人(被害者と加害者)は、同じクラスに在籍する高校生だという。新聞報道によると、同じ中学出身で仲がよかったが、ここしばらく仲が悪くなって口を利かなくなった、という。そのようなとき、相手に対して我慢できないほどの怒りを感じる。おそらく普通ならやり過ごせるほどのものだろうが、仲良しだっただけに「冷たくなった、けしからん、むかつく」ということになるのだろう。「何故こうなったのか。自分のほうに非があるかもしれない、どこが悪いのだろう」と、いったん自分に反省の目を向けることなく、一方的に相手のせいにして、「けしからん、わるいやつだ」と思ってしまう。そして怒りを「抹殺」という形でぶつけてしまう。
どう思っても短絡的で、理解できないことだが、このようなことが珍しくなくなったということは、今の人たちはこのように考えるのだと考えざるをえない。
個人に特有のことか,それとも今の時代に共通することかによって処方箋がかわってくるが、共通の現象だとしたら何をすべきか。「ならぬ堪忍、するが堪忍」というEQの要素は、今も昔も変わらぬはずだ。IQ重視の家庭教育、学校教育を考え直し、小さい時にこそしっかりとEQを教える必要がある。ただし、子どもに教える前に大人こそが学ばなければならないのかもしれない。

心の闇ーパチンコ店放火事件 [現代の若者考]

殺傷事件を起こした高校生の心の問題を取り上げようと思っていたら、大阪でパチンコ店放火事件が起こった。そして多くの犠牲者を出してしまった。
犯人は41歳、サラ金から借金があり生活が苦しかったという。
白昼堂々と犯行に及んでいるので、逮捕は覚悟していたのであろうが、自首後の取調べでは「誰でもよかった」という。秋葉原、茨城などこの種の事件を起こした犯人から出てくる共通の言葉がこの「誰でもよかった」だ。
これは、「死ぬのはだれでもよい、しかし自分だけは死にたくない」という論理だ。苦労している自分がいる一方で、苦労していない他人がいるのは許せない、として関係のない人の命を奪ってしまうのだ。
これを無条件に「おかしい」と感じる一方で、「どうすることもできない」という無力感を感じるのは私だけではないでしょう。戦後の日本がこのような「人間」を再生産してきたのです。
5日に亡くなった土居健郎さんなら、さしずめ「甘えるんじゃない」と一喝されそうだ。
しばらくこの問題を取り上げてみたい。

小さいときの養育 [現代の若者考]

このような事件を起こした人の心のうちについては、小さいときの養育(どのように育てられたか)が少なからず影響しているものと思われるが、情報が少なく、一般論として述べてみたい。
それは、小さいときに物事をどのように与えられるかということに関係している。
子どもは自分が欲しいと思ったときに与えられると、うれしいと思うし、もらった人に感謝する。欲しいと思わないときに与えられると、そのときはうれしいとは思うが、すぐに飽きてしまって、もらったことすら忘れてしまう。
このようなことが続くと、子どもは「自分には与えられるのが当たり前」と思うようになる。
このような子どもが、今度は欲しいと思うのに与えられないとどうなるか。地団太を踏んでも手に入れようとする。デパートなどで子どもが泣き叫んで欲しいものの前を離れようとしないような例だ。親のほうはみっともないし根気比べで負けてしまって、結局買い与えてしまう。子どもが勝ち、親が負けるのだ。子どもは、どのようにすれば欲しいものが手に入るか心得ているので決して妥協しない。
それでは、このようなときに買い与えないとどうなるか。子どもを説得して我慢させようという試みに対して、子どもは泣き叫んで抵抗するが結局あきらめざるを得ないことを知る。そして、親が辛抱強くそのようなことを続けると、子どもは与えられないこともある=欲しくても我慢しなければならないときもあることを理解するのだ。
このような養育のあり方が、成長過程で行動の違いとして現れてくる。(続く)。

自己肥大症 [現代の若者考]

小さいときに我慢することを覚えた子どもは、大きくなって自分が欲しいものが手に入らないからといって人のせいにはしないし、相手の人を憎むこともしない。正常な大人に成長していく。
一方、自分が望むものは何でも与えられ手に入れてきた子どもは、家庭の外でも自分の欲求を満たそうとする。そのため、極端な場合は、人から奪ってでも手に入れようとする(ブレーキが利かない衝動的な行動をとるようになる)。
すなわち、自分が欲しいものをもっていて、与えてくれない人を見ると、その人が赤の他人でも怒りを感じ、憎むようになる。わがままな子どもに育つのだ。
このような子どもが学校に通うようになり、先生に行動を注意されると、「自分は悪くない。注意する先生が悪いのだ」と自分を正当化しようとする。文句をいってくるのもこのような子をもつ親だ。当然親しい友達もできない。
つまり、自分の思い通りにならない人を見ると、一方的に怒りを感じてしまうのだ。「私は、他人の欲求が満たされなくても、自分の欲求を満たすのだ」という論理だ。自分勝手なエゴむき出しの人間が出来上がることになる。決して自分の非を認めようとしないラージ“I”の人間になる。このような人を私は自己肥大症ということにしている。(続く)。

I am OK, You are not OK [現代の若者考]

自己肥大症に罹った人は、常に自分を肯定し、一方他人に対しては、自分の意のままになるときだけ肯定し、ならないときは否定してかかるのだ。基本的には自分以外の人はNOなのだ。したがって、Iam OK, You are not OKの関係が成立する。ただし、Iはラージ“I”となり、You はスモール“you”となる。つまり、人間関係の一般的な公式が、この種の人にはバイアスがかかったいびつな公式(I am OK, you are not OK)になってしまうのだ。
何故なら、この種の人は常に「自分は他人の上にある」という錯覚(仮想)のうえに自己をつくっているから、下にいる他人があってはじめて肯定できる自分が成りたつのだ。そして、この関係が維持できている(と本人が思っている)間は問題は発生しないが、この関係が崩れると問題が発生する。(続く)


自己肯定感が崩れるとき [現代の若者考]

この関係が維持できているとは、他人との間にトラブルがなく、あっても自分の方が有利な形で物事が収まるときである。
ただし、これには注意が必要だ。そのような関係はあくまで、自分のほうから見た関係であり、他人がそれを認めているかどうかは別のことだ。他人は、その人に関わると厄介なことが起こるので、深入りしないで黙って見過ごしているだけなのだ。何もないように見えるだけだ。
それでは、この関係が崩れるとはどういうことか?それは、自分が優位にあるという思い込みが崩れるときだ。
自分が仲間や周囲の人の中で劣位にあると判断せざるを得ないときだ。通常は、自分のほうが上だという思い込みがあっても、身近なところに自分よりも優秀な人が出てきて、自分もそれを認めざるをえないケースだ。周囲の人もそちらを注目する。自分が劣位に置かれていることを身をもって感じる段階だ。
そのような時、一転して自己肯定感が崩れ、自分をダメだと思うようになる。(続く)。


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