池上金男「鉄血の島」(3) [日記]

松本は戦後、軍需物資を調達しながら京都で占領軍向けにお土産品の店をはじめ、飲食店、料理旅館、レストラン、喫茶店、食堂、キャバレー、バーなどに手を出し、商売はいずれも大当たりした。
京都の前田家別邸を手に入れ、占領軍(米第六軍司令部)によりそこが長期駐留の施設として接収されたときから担当のブレークリー少佐と懇意になる。
その前田別邸はその後、西武グループ創始者堤康次郎に売却することになった。

松本は、商売の傍ら、心を許す同士を結集して「日本民主同志会」(日民同)を結成した。そして志業の精神のもとに、運動の目標を「国家に殉じた英霊の慰霊」と「沖縄の本土復帰」においた。

その松本が、1948年(昭和23年)10月、仲間4人と一緒に一艘の機帆船をチャーターして、占領下にある沖縄に上陸した。掲揚を禁止されていた日章旗を掲げて上陸した。占領軍との間にひと悶着あったのは言うまでもない。
72時間の滞留期間が言い渡され、船に積んできた鞍馬石に「弔」の文字を彫った弔魂碑は海中投棄と決まった。情報将校ハドレー少佐の監視の下に碑を入れた木箱は海に沈んでいった。
しかし、この木箱はその日のうちに糸満漁師の手によって引き上げられ、沖縄戦最大の激戦地、嘉数高地に安置された。

沖縄はアメリカの占領下に置かれ、祖国日本に倍する苦難の道を歩み続けた。1951年(昭和26年)、対日講和条約が締結されたが、米国の沖縄施政は軍政から、民政長官による米民政府に替わっただけで、その内容はほとんど変化しなかった。
その間にも松本は、毎年のように慰霊の旅を続けた。
そして、「米軍の沖縄戦犠牲者に対する扱いは、徐々にではあったが変化した。山間に、野辺に、散乱したままの遺骨を、一片だに拾うことを許さなかった米軍が、いつか遺骨を集めて無縁塚を築くことを許し、更にそれを祀ることも許可するようになった。」のだ。
あるとき、松本は巡礼団とともに沖縄に渡り、戦跡をめぐるうち、嘉数の丘で砲弾に砕け散った石のかけらを拾った。
沖縄の土は本土に持ち帰れない。ここは異国の支配する島だった。検疫がそれを許さない。だから石を拾ったのだ。そして涙を流して次のような歌を詠んだ。
  遺骨だにまだみぬ人にたのまれて
   泣き泣き拾う沖縄の石
後に沖縄護国神社が建てられたとき、その境内に鳥居(松本が懇願して、京都東山の護国神社にあったものを献納)と併せてこの歌を刻んだ松本の歌碑が建てられた。

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