池上金男「鉄血の島」(最終) [日記]

1966年(昭和41年)8月。
佐藤栄作は、日本の現職総理として戦後はじめて沖縄の土を踏んだ。
そして「沖縄が祖国に返らない中は、日本の戦後は終わらない」という声明を発表した。
総理の声明は、「戦後20年、日本人の心の奥底にくすぶり続けた悲願の火を、あかあかと燃え上がらせた。沖縄を、日本の手に取り戻そう。その炬火は、やがてアメリカを揺り動かすに至る」

しかし沖縄では、保守と革新の政争の嵐が吹き荒れていた。
保守陣営は、沖縄の早期返還を目標に掲げ、革新陣営は、返還時の基地即時撤廃をスローガンにして譲らなかった。
松本は、三選された佐藤の意を受けて沖縄に飛んだ。
琉球政府の一室に、松本は政府主席の屋良朝苗と、革新統一の喜屋武真栄を招き、三者会談を開いた。松本は、沖縄の指導者2人に、火を吐く熱弁を振るった。
「敗戦によって失った領土を、話し合いで取り戻す、というのは、歴史上稀有のことである。不可能に等しいその企てが、いま実現しかけている。戦勝国アメリカは、いまは同盟国となった日本の悲願を黙し難く、極東の平和維持体制を堅持するため、沖縄返還交渉に耳を傾けつつある。
そのとき、実現のまったく不可能な、基地撤廃を条件に、沖縄住民が激しい闘争を展開し続ければ、アメリカの意向がどう傾くか、それは火を見るより明らかである。・・・
私はあんた方の主義主張の是非を論じようとは思わない。ただこの機運を逃すな、逃してはならぬといいたいのだ。戦後二十数年、あんた方は異民族支配の下で、筆舌に尽くせぬ苦難を嘗め続けてきた。私をはじめ日本国民は、その沖縄返還の悲願を、一日として忘れたことはない。その全国民の悲願と、日本と沖縄の百年の大計のため、小異を捨てて、沖縄返還交渉を支援してくれ。それが私の生涯の願いだ。」
ただの政府関係者の説得なら、屋良も喜屋武もいうべき事は山ほどあった。しかし、この男には勝てない。無縁の沖縄に、二十余年、愛情をそそぎ尽くしてやまない男の説得に、二人は固く手を握り合った。

松本から委細を聞いた佐藤は、1969年(昭和44年)11月、米大統領ニクソンとの会談に臨んだ。会談後に発表された日米共同宣言は、1972年(昭和47年)、核抜き本土並みの返還を約束した。
不可能は可能となった。これは奇跡といえる。日本国民は容易にそれを是認しようとしないが、世界はその奇跡に眼を見張った。それが後に、佐藤栄作に贈られたノーベル平和賞で証明される。

松本は、遂に偉業を成し遂げたのだ。



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