いのちとは「自分が使える時間」 [時間]

ミヒャエル・エンデ流に定義すると、「いのちは自分が使える時間」と言うことができよう。
その時間は見えない。「大切なものは目に見えない」というサン・テグジュペリを持ち出すまでもなく、いのちも時間も見えない。心で見るものだ。そして、一人ひとりの時間は有限であり、それをどう使うかは自分で決めなければならない。ということは、どう生きるかも自分で決めなければならないということだ。
しかし、会社等に勤めていると、時間の使い方はすべて会社に決められていて、個人はそれにどう従うかだけだ。すべてが会社(他人)任せであり、自分で自由に使える時間は殆ど無いに等しい。

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時間をもて余す [時間]

 会社では、勤務時間中は時間管理が厳密に行なわれていて、時間の有効活用が身体に染み付いている。そして、会社に勤めている人の宿命として、必ず引退という名の引け際がある。
それは、会社のほうから「明日から来なくてもよい」と言われる。定年退職である。しかし、多くの場合、そこで仕事もやめてしまう。仕事は会社あってのものだからだ。そして元気であっても、毎日することも無く長い余生を過ごす羽目になる。休日の過ごし方まで会社は教えてくれなかった。
毎日が日曜日とは、明けることのない休暇を過ごすようなもので、1日の生活パターンを死ぬまで繰り返すことになるのだ。退屈以外のなにものでもない。

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何もしないことを楽しむ [時間]

 何もしないことでうしろめたい気持ちになるのは、会社勤めをしていて分刻みで動いていた習慣が抜けきれていないだけだ。時間はたっぷりあって、それに合わせたスローライフに切り替える、つまりギア・チェンジして自分のペースを見つけるのだ。
そして、自分と向き合う時間がとれることを楽しもう。もう誰も時間の使い方がおかしいとは言ってこないはずだ。
モモが時間泥棒から時間を取り戻した状態をつくるのだ。それは直線的に流れていく時間に対して生物学的な時間を取り戻すということだ。

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会話がなくなる? [時間]

人はどんなことにも適応できる。退職後の単調な生活も慣れればそれほど問題ではない。
ところが、多くの人が耐えられないことがある。それは、今までは会社に行けば多くの人たちとの会話があったが、それがなくなって、夫婦の会話だけになるということだ。ところが、夫婦間の共通の話題はほとんどないといってよく、急に二人だけの生活になっても他人行儀になって会話は進まないのだ。
そこで相手をしてもらえるのはテレビだけで、1日のかなりの時間を新聞とテレビを見て過ごすことになる。しかし、テレビは一方的に語りかけてくるだけで双方向の会話は成立しない。そして時間だけが通り過ぎていくのだ。
その生活パターンを変えなければならない。会話は何も相手がいなくてもできる。自分自身との対話だ。


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自己対話がある [時間]

対話といえば通常は相手がいるが、相手のいない対話のことを自己対話という。
私たちは生涯のうち誰と一番多くの時間をかけて対話しているかといえば、それは自分をおいてない。
私たちは絶えず自分と対話している。耳を澄ませば、頭の中でささやきかけている声が聞こえるはずだ。他の人がいなくても、その声に耳を傾ければよい。それは可能なはずだ。したがって、自分ひとりでいても寂しくないはずだ。自分が生涯自分自身に寄り添ってくれていると思えばよい。そうすれば、自分に対してどんな質問も投げかけることができる。それを自分の手で書き留めておくことだ。つまり日記帳をつけることを習慣化すればよい。

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自己対話のテーマ [時間]

自己対話のテーマはいくらでもある。例えば:
・自分の人生は、まんざらでもなかったと言えるか?
・自分の人生は、もう一度やり直せるとしたらまた同じような選択をするか?
・自分は人生を楽しんでいるか?
・自分はどこから来てどこへ行こうとしているのか?
・人生は何を自分に期待しているだろうか?
・自分の最後のときは誰に側に来て欲しいか?
・死んだら人間はどうなるのだろうか?
などいくらでも問いかけることができるはずだ。仕事をしているときは忙しいことを理由にして考えることを避けてきたことばかりだ。他人との間でこのような内容の対話をしようとすると、どんなに親しい仲でも煙たがられてしまうだろう。しかし、相手が自分自身なら嫌がることもないし、時間はたっぷりとあるはずだ。

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避けたいテーマ [時間]

このようなこと(前回書いたテーマ)を考えるためには、ある程度まとまった時間が必要だし、雑音が入ると中断してしまうものだ。他人がいればなおさら難しい。
一人で目をつぶって黙想しようとしても、雑念が入り込んできて、まとまった考え方が出来ないことは経験済みだ。そこで日記帳のようなもので自分の想念を書きとめるようにすれば、ある程度まとまったものにすることができる。そして、それに慣れてくると、日記帳がなくても前の続きを進めることができるようになる。
自己対話は無限に続く自分との対話だ。

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