老人は取り残されるのか? [時間]

老人の時間がゆっくり進むのだから、年を取れば取るほど社会のスピードについていくのが難しくなるのは当然のことだ。
木川氏も「時間」のなかで次のように述べている。
老人の時間は、若者のものとは、かなり異なるものだと結論できると思います。ガタガタの体、スカンスカンの時間、こういうものと付き合いながら生きていくのが老いの期間だとすれば、それなりの覚悟をもって臨まねばならないでしょう。いつまでも若くはないのだというけじめが必要です。そして、このような期間を幸せに過ごすには、かなりの知恵がなくてはなりません。



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老人の時間に乗り移る [時間]

それではどんな知恵があるというのだろう。
老いの期間を意味のある過ごし方をするには、時間の捉え方を変える必要があるのでしょう。もし、機械的に時を刻む一種類の時間しかないとしたら、老人には過酷な運命が待ち受けることになります。時間の流れを変えることが出来ないとしたら、選択肢はただ一つ、その流れにどれだけ乗っていけるかということだけです。
ところが、世の中は若い人のスピードを基準に組み立てられていますから、老人はそのスピードについていけません。効率重視の世界では、老人は厄介者で落伍者になります。スピードについていこうとするだけでストレスがたまり、つまずきます。
生き延びるためにはその流れから跳び降りるしかありません。別な時間を生きるということです。




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待てない老人 [時間]

現実をもう一度よく見ておこう。老人は効率重視の生き方が身に沁みついている。
時間に急き立てられるように歩き、待つことをしないでゆとりなく生きている。
ゆっくり歩いている人を追い抜き、交差点で信号が点滅をしていても走って渡ろうとする。銀行や病院の窓口で待たされると時間の無駄使いをさせられたといって腹をたてる。
スピードについていこうとすればするほどいらいらが募り、ついていけない自分を受け入れようとしないで腹をたてる。キレる老人が増えてくるのだ。
彼らは、かつては時間と同じスピードで生きてきた。しかし、今はそれができない。はやくその現実を認めてもう一つの時間(生理的時間)を生きることを決心することだ。


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スローライフ [時間]

老人になると時間がゆっくり流れるということは、それに合わせたスローライフが必要だということだ。老人の時間は、子どもより2.5倍ゆっくり刻むが、大人に対しては1.2倍になる計算だ。
したがって、大人より2割がたペースを遅らせる必要があるのだろう。
具体的には、待つこと、ゆっくりと歩くことができるようになるということだ。
交差点で青信号が点滅し始めたら渡らないで立ち止まる。発車間際の電車には飛び乗らないで次の電車を待つ。閉じようとするエレベータには乗らないで次を待つ、などだ。歩くときは忙しげに歩くことをやめゆっくりと歩くことだ。そのため、予定の時間には余裕をもって出かけることだ。そうすれば、今まで目にとまらなかった風景が見えてくる。それは機械的な時間にしばられない生き方を取り戻すことになるのだ。

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ミヒャエル・エンデの「もも」 [時間]

ミヒャエル・エンデが「もも」(岩波書店)のなかで描こうとした「時間」の世界もまさにそのことだ。簡単に要約すると以下のようになる。
町はずれの円形劇場跡に迷い込んで住み着いた少女モモ。町の人々はモモに話を聞いてもらうと幸福な気持ちになる。そこへ時間ドロボーの灰色の男たちがやってきて、人々に時間を節約して余った時間を時間貯蓄銀行に預けるよう仕向けてくる。人々は効率よく仕事をすることに夢中になり、時間を節約して銀行に預けようとするが、それなのに時間はますます少なくなってくる。豊かにはなったが、ますます忙しく、ストレスといらいらが募ってギスギスした生活を送るようになる。
これに気付いたモモがマイスター・ホラの助けを借りて時間ドロボーと対決し、盗まれた時間を取り戻すというストーリーだ。

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時間を取り戻した結果・・・ [時間]

モモが時間ドロボーから時間を取り戻した結果、急にたっぷりと時間があるようになった。
「仕事に出かける人も、いまでは窓辺の美しい花に目をとめたり、小鳥にパンくずを投げてやったりするゆとりがあります。お医者さんも、患者ひとりひとりにゆっくり時間をさいています。労働者も、できるだけ短時間にできるだけたくさん仕事をする必要などもうなくなったので、ゆったりと愛情をこめて働きます。みんなはなにをするにも、必要なだけ、そして好きなだけの時間をつかえます。」
このように物語を書き終わった後で、ミヒャエル・エンデは次のように「あとがき」を書き添えている。
「過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話してもよかったんですよ。私にとっては、どちらでもそう大きな違いはありません。」

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ミヒャエル・エンデの時間についての考え方 [時間]

ミヒャエル・エンデの時間についての考え方を、「もも」の文中からそのまま引用しよう。解説はもう不要だろう。
●「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのと同じに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないも同じだ。ちょうど虹の七色が目の見えない人にはないも同じで、鳥の声が耳の聞こえない人にはないも同じようにね。でも悲しいことに、心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、何も感じとれない心をもった人がいるのだ。」
●「時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。」
●「時間はある―それはいずれにしろ確かだ。でも、さわることはできない。つかまえられもしない。・・・人間は自分の時間をどうするかは、自分で決めなければならないよ。」

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