囚人のジレンマ(13) [ゲームの理論]

「生きる」の顛末はあまりに寂しい。しかし、ほっとするところでもある。
何が寂しいのか。この主人公は社会とのつながりがあったときでも毎日同じことの繰り返しで生きていたに過ぎない。生きがいなど無縁の世界だった。しかし、定年間際になって、しかも自分ががんであり余命6ヶ月であることがわかった時から生きた証を求めるようになった。そして自分にできることは何かを考えだした。そしてある湿地帯に公園をつくることに奔走したのだ。自分の死を意識することでこの人は生きることを追求し始めた。それまでは生きているにすぎなかった。要するに死んでいなかっただけなのだ。しかし、本人もそのことに気づいて「こんなはずではなかった。もっと違った生き方があるはずだ」と考え出した。死と向き合って初めて生きることの意味を問うことになるのだ。
だから、短期間に変貌することができたと言えよう。そして、完成した公園のブランコにのって、一人静かにで死んでいく。
「生きる」ということを象徴的に表現した映画だが、それはまた「死」を考えさせる映画でもある。

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