誰も期待してくれない(8) [男の居場所]

人によって違いがあるが、定年から3ヶ月ぐらい経ったところで人は悩み始める。
自分の人生を振り返ると、小さいときは親の期待に、学校に行くと先生の期待に、社会に出ると会社の期待に、家庭を持つと家族の期待に、それぞれ何の疑問も持たず応えてきた。それが当たり前だった。したがって、期待は常にあるものだと思って生きてきた。
しかし、定年退職を迎えると、それらのものは無くなってしまうのだ。


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上り坂(9) [男の居場所]

誰も期待してくれないとしたら、自分で期待するしかないのだ。
しかし、自分の何に期待すればよいのか。自分の人生に期待するとして何があるのだろう。
それにつけ思い出すのは、上り坂、下り坂という表現だ。
平均的に考えると、誰にも上り坂と言えるときがあっただろう。45歳ぐらいまでは疲れ知らずに仕事に打ち込んできた。遊びもやった。時間をもて遊ぶということは決してなかった。いくら時間があっても足りなかった。上り坂を登っているともっと先に頂上があると錯覚するが、案外胸突き八丁のところに頂上があるのかも知れない。そのとき一番エネルギーを使ったはずだ。

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頂上の風景(10) [男の居場所]

上り坂のときは、人生はバラ色に見えた。
努力次第で、もっと良い未来が拓けると素直に感じることができた。今よりももっと良い未来が待っていると。頂上に達したときに見える風景を期待しながら山を登ってきた。きっと360度パノラマに違いない。
しかし、登りきったと思われるところに着いても必ずしもバラ色には見えない。むしろ後になってそこが頂上だったと気づくのではないか。しかもそこに留まれる期間はそう長くは続かないものだ。
やがて下山の時期に入る。体力はだんだん衰えてきて、無理がきかなくなってくる。すべてのものが以前のように生き生きとは見えない。

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人生の正午(11) [男の居場所]

 ユングは、人生の折り返し点を40歳とし、人生の正午という言い方をした。太陽は真上に輝き、自分の影も映らない。人生で一番輝いているときだ。しかし、それを実感できることはまずないだろう。
なぜなら、体力のほうは40歳になるまでにピークを過ぎるが、仕事を通じての会社内での地位や社会的立場はその後も上がり続けるから、ピークはもっと後にくると思ってしまうからだ。
つまり、肉体的には“もう若くない”と感じても、精神的には“まだ老いていない、これからだ”と将来に対して楽観的になることができるのだ。

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下り坂(12) [男の居場所]

 しかし、それ(ピーク)もつかの間のことだ。そのうち(近い将来)手に入る、と思っていた“輝かしい将来“は、だんだん遠ざかっていくだけでなく、体力のほうはどんどん衰えていく。
自分が下り坂にさしかかっていることを認めることはつらいことだ。それが見えてくると、今度は「定年までなんとか勤められればよい」と思うようになる。そのときにはもう下り坂の中途に差しかかっているのだ。
真上にあった太陽は西に傾きかけ、上り坂のときには自分の後ろに見えた影は、自分の前に見えるようになる。

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下り坂で見える風景(13) [男の居場所]

下り坂にさしかかって来ると、見える風景も変わってくる。
上り坂のときは、周囲の風景を見る余裕もなくただひたすら頂上を目指して登っていった。視界に入るのは、登っていく道中の近景だけであった。
しかし下りに入ると、足元の近景だけでなく遠景も見えるようになってくる。そして、変化していく風景を楽しむ余裕がもてるようになる。しかし、下り坂では、登るときほどエネルギーは使わないのだが、登るときに体力を消耗したものだから、疲れを残したまま下ることになる。そして、登っているときに感じたワクワク感はもうない。

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こんなはずではなかった!(14) [男の居場所]

 下り坂の風景をもっと具体的に見ることにしよう。
40歳を超えてくると、会社や社会における自分の立場が見えてくる。同期入社で選抜される人とそうでない人が分かれてくる。ほとんどの人は“そうでない人”の分類に入る。そして、“なんであいつが昇進して自分は取り残されるのか”と怒りのような感情がこみ上げてくる。しかし、それを誰にも話せないし、そっと自分の胸にしまっておくしかないのだ。そして、何食わぬ顔をして残りの会社生活を送らねばならないことを悟るのだ。

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