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囚人のジレンマ(8) [ゲームの理論]

私たち大人の生き方はそのまま子育てのスタンスとして反映され、子供に伝えられます。すなわち、私たちは子供に対して「他人や社会に迷惑をかけないような人間になりなさい」と言ってきたはずです。それ自体は当たり前のことですが、その背景に現代の大人の生き様が見えてきます。すなわち、子供が傷つくのを恐れるあまり、安全第一の世渡りを願って、他人とのかかわりをできるだけ消極的にすまそうという考え方です。社会とのかかわりにおいても、「迷惑をかけなければそれでよい。頼まれもしないのにわざわざ自分のほうから苦労を買って出ることはない。失敗でもしたら傷つくのは自分だけだ。自分のことだけ考えて無難に生きるのがなによりだ」と思っているのです。

 そういう親の気持ちを反映してか、最近の子供たちは学校でクラス委員など割に合わないと引き受けないし、掃除などやろうとしないという話を聞きます。クラスのために頑張るとか、責任を果たす行為は、エエカッコシがやることで、仲間うちからは決して評価されないのです。そればかりか、仲間の誰かがやろうとすると、妨害されたり、イジメの対象になったりします。

囚人のジレンマ(9) [ゲームの理論]

少しわき道にそれるが、以前この欄で、ドイツの哲学者ショーペンハウェルの「ヤマアラシのジレンマ」という寓話のことを紹介したことがある。このテーマと関係があるので再度述べてみたい。
ある寒い冬の日、あまりに寒いのでヤマアラシはお互いに身を寄せ合って寒さをしのごうとする。
しかし、自分の身体に生えている針で相手の皮膚を刺してしまう。痛いのでヤマアラシは離れることになる。それでも寒いので、また身を寄せ合おうとする。するとまた刺して離れる。
このようなことを繰り返しているうちに、ヤマアラシは傷つかない適度の距離を見つける。
しかし、これは安全な距離であって最適の距離ではない。近づきたいが、これ以上近づくとお互いに相手を傷つけ合うので近づかない。
この寓話は、現代の若者達の立場をよく表現していると思われる。
すなわち、現代の若者達はメールでやりとりする友達はいても、人間として面と向かってぶつかることはしない。一人ひとりが自分のテリトリーをもっていて、他人の領域にそれ以上入らない代わりに、自分の領域にも入ってもらいたくない、そういう付き合い方をしているのだ。他人の領域に入らないということは、他人の迷惑にならない生き方そのものに他ならないのである。このような生き方をしていると、表面的には仲良くやっているようで、内実は皆孤独なのだ。


囚人のジレンマ(10) [ゲームの理論]

しかしながら、このような態度からは思いやりのある人間関係も、こころ豊かな社会も生まれてこないことは明らかです。「他人に迷惑をかけなければそれでよい」という消極的な生き方からは、何も生まれてきません。他人とは距離をおいて生きるという無縁社会への移行が叫ばれるなかで、どんどん絆が失われていくことになります。私たちは子どもに対してもっと積極的に「世の中のためになる人間になりなさい」と言い聞かせる必要があるのではないでしょうか。
 それは同時に、私たち自身に向けて発せられるべき言葉だと言えます。私たちが消極的な生き方をしているかぎり、子供はそれを見習います。子どもというのは、「親が言うようにはしないが、親がするようにはする」ものです。
そして一度は親の生き方に疑問をもって反抗することはあっても、結局は親と同じ無難な道を歩もうとします。
これは世代論のテーマになるものです。すなわち革新的な心をもった青年達が年を重ねるにつれて保守的になっていくというものです。

囚人のジレンマ(11) [ゲームの理論]

私たちは、人生の早い段階から勝つことのイメ-ジを、相手に勝つという「勝ち-負け」から、相手と共生するという「勝ち-勝ち」に変え、生き方を変える必要があるのではないか。そして、もし競争するのであれば、それは自分と競争すればよいのです。つまり「自分に克つ=克己」がわれわれの目指す生き方にならなければならないのです。
多くの場合、私たちがこのような「勝ち-勝ち」の生き方の必要性に気づくのは、残念ながら社会から引退してからですが、それでは遅いのです。人とのつながりを避けるという消極的な生き方をした人は、社会とのつながりが無くなったときから、生きがいを喪失します。それまでは、自分がすることを組織という他人が与えてくれました。引退するとそれがなくなってしまいます。そのとき、自ら新しいやりたいことを見つけられる人はよいのですが、多くの場合それは望み薄です。何をしていいかわからないのです。受身の人生を送ってきた人にこれからは自ら選んだ主体的な生き方をしてくださいといっても所詮きれいごとになってしまいます。
生きがいというのは、自分が社会のどこかとつながっていて、他人のために役立っていると実感できてはじめて感じられるものだからです。それは自分の枠から出て他人の領域に入っていくことです。そこでは「やまあらしのジレンマ」は通用しないのです。
そして生きがいをもてる人は、社会とのつながりの中で「生きていく」ことができます。ところが、社会とのつながりがなくなり、絆が絶たれたとき、人は生きがいを失うだけでなく、「生きている」ことはできても、将来に向かって「生きていくこと」はできないのです。つまり、死んでいないだけの話になります。


囚人のジレンマ(12) [ゲームの理論]

そのことを思い出させてくれるものに、黒沢明監督の映画「生きる」という名作があります。私たちは、監督が主人公を通じて伝えようとしたメッセ-ジを再確認する必要があります。少し長くなりますが、物語のあらましを紹介したいと思います。

物語の主人公は、市役所で働く市民課長。彼はもう30年間も毎日同じ時間に始まり同じ時間に終わる生活を繰り返してきた。今の仕事はといえば、部下からあげられてきた稟議書にひたすら判を押すだけ。
そんな彼が、あと一年で定年を迎えることになる。彼はここ数年、胃の調子が悪く医者通いが多くなる。ある日、医者の態度からガンであることを悟る。それもあと半年の命。自分ではどうにもならない現実を前にして、彼は焦り、今まで決して休むことのなかった役所を無断欠勤する。そして酒浸りの数日が続く。何をしてもつまらない毎日-。そこで彼は、自分の30年間を初めて振り返る。「いったい自分は何をしてきたのだろう?」と。そんなある日、「市役所での仕事がつまらない」といって退職した女性と出会う。彼は真顔で聞く。「君はどうしてそんなに生き生きしているのだ?市役所にいたときは嫌な顔をしていて、ちっとも朗らかじゃなかったじゃないか」
すると彼女は、手に持っていたウサギのおもちゃにゼンマイを巻いて、彼の目の前に置いてこう答える。「私、お人形を作る工場で働いているの。そして思うの。小さなお人形を作るたびに、これでまた日本のどこかにいる赤ちゃんと仲良くなったなあと。そう思うと、仕事が楽しくて。生きがいがあるのよ」
それを聞いた彼は、「生きがい、生きがい」とつぶやく。そして、残り少ない人生で一つだけ「人のためになる仕事をしよう」と決心する。
市役所にもどった彼は、死ぬまでに自分に出来ることは何か探し始める。そして、つい最近、自分が惰性でたらい回しにした市民からの”湿地帯に公園を!”という請願を思い出し、それを実現させようと動き出す。彼の行動は変化し周囲も巻き込まれていく。そして努力は実を結び、湿地帯に公園が完成した。そしてその年のクリスマスイブの夜、雪のふる寒い公園で、彼はブランコに揺られながら息をひきとる。

囚人のジレンマ(13) [ゲームの理論]

「生きる」の顛末はあまりに寂しい。しかし、ほっとするところでもある。
何が寂しいのか。この主人公は社会とのつながりがあったときでも毎日同じことの繰り返しで生きていたに過ぎない。生きがいなど無縁の世界だった。しかし、定年間際になって、しかも自分ががんであり余命6ヶ月であることがわかった時から生きた証を求めるようになった。そして自分にできることは何かを考えだした。そしてある湿地帯に公園をつくることに奔走したのだ。自分の死を意識することでこの人は生きることを追求し始めた。それまでは生きているにすぎなかった。要するに死んでいなかっただけなのだ。しかし、本人もそのことに気づいて「こんなはずではなかった。もっと違った生き方があるはずだ」と考え出した。死と向き合って初めて生きることの意味を問うことになるのだ。
だから、短期間に変貌することができたと言えよう。そして、完成した公園のブランコにのって、一人静かにで死んでいく。
「生きる」ということを象徴的に表現した映画だが、それはまた「死」を考えさせる映画でもある。

囚人のジレンマ(14) [ゲームの理論]

「生きる」の主人公は、死を予期したときから生きることを始めた。つまり、本人の心のなかでは命のカウントダウンが始まったときから生きることを考え出したのだ。それまでは、たんに生きている状態が続いていただけだ。いわば生きる屍だったということができよう。そこにはお世辞にも未来に向かって生きる姿は見えない。意思も見えない。その意味では、生きることと死ぬことは表裏の関係にあるといえよう。
ふだん死を感じていないときは生きていない。死んでいないだけなのだ。そして死を意識したとたんに生を考え出す。そして、生きることを始める。
これが人間なのかも知れない。
私たちは死と隣り合わせに生きていることを頭では理解していても、自分の身にふりかかってくることとは考えない。つまり、平均寿命までは生きられるだろうと高をくくっているのだ。しかし、多くの場合、それは「生きている」のであって、「生きていく」ことにはならない。生きていくためには、死ということを頭ではなく心で感じなければならないのだ。
「生きる」の主人公も、短期間ではあるが「生きた」と感じることができたので、自然体で「死」を受け入れることができたのではないか。

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