若い男性の流儀 [日記]

昨日のような現象は、何も女性に限られたことではない。電車の中で弁当を広げて食べている男子学生を見かけることがある。お店のドアの前に座り込んで、大声で話し、笑いあっているグループを見かけることもある。このような現象(お化粧、食事、座り込み)は、本来個人のプライベート空間で行われるべきことがパブリック空間に持ち込まれて、公私の区別がつかなくなったものと見ることができよう。つまり、「私」が動く空間はすべて「私のもの」だという論理だ。したがって、私の空間を犯す人がでてきたら、それは「けしからん」ことだとして言いがかりをつけたり、怒りをぶつけたりするのだ。他人への思いやりなどないのだ。
でも、考えてみたら、このような若者をつくってきたのは親である自分達だと思えば、どこに怒りをぶつけてよいかわからなくなる。つまり、社会現象になってしまったことは、社会全体で取り組まないと改善されないということだ。
しかし、そう言っていたら、誰も行動を起こす人はいなくなる。私達は、そのような人を見たら(特に自分の子どもがそうやっていたら)、厳しく注意する必要があろう。その前に、まず自分はそのようなことをしないことだ。“隗より始めよ”だ。

おくりびと [日記]

遅ればせながら、映画「おくりびと」を見た。
物語は、所属するオーケストラが不況で解散し、職を失ったチェロ奏者の大悟が、妻を連れて故郷の山形に帰ってくるところから始まる。早速「旅のお手伝い」というNKエージェントの求人広告を見つけて旅行代理店だと思って面接にでかけ、その場で採用になるが、社長から「旅立ちのお手伝い」の誤植だと告げられる。「向かなければ辞めればよい」と思って働き始めるが、妻にも本当のことを告げられない。(途中でバレて妻は「みっともない」と言って実家に帰ってしまう。その後帰ってくる。)
納棺師という特殊な仕事に戸惑いながらも次第に大きな意義を見出していく姿と、それを取り巻くさまざまな人間ドラマがユーモアを交えながら展開されていく。そして最後に、自分が小さいときに母と自分を捨てて出て行った父親の弔電が舞いこんで、迷いながらも現地に出かけて行って自分の手で死出の化粧を施し、納棺するところで終わる。
この映画がアカデミー賞外国語作品賞を受賞したのは、「人間の死」という重いテーマを扱いながら、そこに展開される人間ドラマが愛情とユーモアをもって展開されているのを、アメリカの審査員も理解してくれたのではないかと思う。そして、なんといっても、映像の美しさと音楽がすばらしく調和していて、見ていて爽快感があった。
ただし、来世(つまり宗教)について語られていたら、もっとよかったのかも知れない。

日本の針路 [日記]

現在の日本の政治情勢を理解するには、1989年11月9日に起こったベルリンの壁の崩壊にさかのぼることができる。私は、壁が崩壊した1週間後にベルリンに入り、あの歴史的な瞬間に立ち会うことが出来た。あの時の熱狂ぶりを今でも忘れることはできない。そして、「これから世界は大きく変化する」ということを肌で感じることが出来た。それから間もなくして、ソ連が崩壊し、それとともに東西冷戦構造に終止符が打たれた。
戦後の日本の政治は、冷戦体制を代理するような形でイデオロギーの看板を掲げた政党が自由主義、社会主義社会の実現をめざして競ってきたといえよう。そして、アメリカの核の傘の下で生きる道を選択した日本は、55年体制を維持し続けてきた。
しかし、冷戦構造の崩壊はイデオロギー時代の終焉を意味し、アメリカ一極支配の中で日本の政党は将来構想を描けないまま離合集散をたどって今日に至っている。そして更に、今回のアメリカ発の金融危機は、アメリカの一極支配構造に終止符をうつことになったが、日本ではいまだにどの政党も「国の針路」を描ききれていない。
現状ではダメということだけははっきりしているが、それではこれからどのような日本をつくっていくのか、今回はまさにそれが問われる選挙であるべきであり、それを描いた政党がこれからしばらくの間日本の政治を主導していくものと思われる。

オペラ「ヘンゼルとグレーテル」 [日記]

昨日、小澤征爾音楽塾主催の「ヘンゼルとグレーテル」を観にいった。
もともとこのオペラは、フンバーディングがグリム童話「ヘンゼルとグレーテル」をもとに作曲した全3幕のオペラである。配役はヘンゼルとグレーテル、その両親、魔女、眠りの精/露の精の6人は本場から招聘し、あとは日本人という組み合わせで行われたが、まったく違和感がなく楽しむことができた。
舞台装置の素晴らしさ、それにハイテンポな音楽がマッチしてさすが小澤さんの演出、という感じがした。そして、魔女が出てきてのストーリィの展開が面白く、子どもに返ったように素直に楽しむことができた。
ちなみに、子ども連れの人(残念ながら母親と子ども)もいて、このような親に育てられている子の情緒は立派に育つだろうと振り返った次第です。

18歳は成人 [日記]

法制審議会の部会は、選挙権の年齢を18歳に引き下げることを前提に「民法の成人年齢を18歳に引き下げるのが適当」とする最終報告をまとめた。9月の総会で承認されれば法相に答申することになる。これは、2007年に成立した憲法改正のための国民投票法が、18歳以上に投票権を与え、10年の施行までに民法の成人年齢や公選法の投票年齢を見直すことを明記したことを受けた結論だ。
最終報告は、18歳成人について「若者を将来の国づくりの中心としていくという強い決意を示すことにつながる」と指摘している。
この結論に対しては賛否両論があるようだが、それは「18歳というのは、身体は大人、心は子ども」という現象のどこを見ているかによっている。特に「心は子ども」に対する反応として「まだまだ個人として独立した判断ができない」という現状を追認する反対派と、「教育等の手当てをするによって自立させていく」とする賛成派に分かれているが、若い人たちに「大人」の自覚をもたせる意味からも後者であって欲しいと思う。


高校生の未来塾 [日記]

高校生を対象にした「近畿未来塾」が兵庫県篠山市で開催された。今年で4回目になり、国際保険(株)を中心にした事務局の運営もだんだん洗練されてきていて頭が下がる思いだ。
参加者も近畿地方が中心とはいえ、東京から福岡までの37校から69人にのぼっていた。それにサポーターといわれる人たち20人と事務局が加わって総勢100人の規模だ。日程は5―8日の3泊4日で、参加者は緊張した面持ちで会場に集まっていた。講師は、教育や法律、スポーツ、報道関係者などがそれぞれの立場から現在の日本が抱える問題や、高校生が自主的に自分の将来を築けるよう考え方のアドバイスすることになっている。
私は1回目から参加しているが、テーマは「自己実現―自尊心をもって生きる」という大それたものを選んでいる。高校生が自分というものを他人との比較や競争から捉えないで独自の夢や目標をもち、それを本気で信じることができること、それを心理学のアプローチをつかって説明することにしている。そして最後に、自分の目標をアファメーションとして書いてもらっている。
ただ、気になることがある。それは「どのような目標をもてばよいのですか?」という質問を受けることだ。昨年も同じような質問がでた。そのようなとき「あなたの人生でしょう。それを他人に決めてもらうのですか?」といって考えさせることにしている。最終日には自分が作ったアファメーションを全員の前で発表することになっている。
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他人を許せないサル [日記]

正岡信男氏は、「他人を許せないサル」のなかで、IT世間につながれた現代人の実態を次のように描写している。
ケータイの普及にともなって、ケータイによる犯罪が多発している。ケータイは他人に悪意を抱かせる犯罪にかりたてる武器になってしまった、という。しかも、「昨今は特定の人物が許せないのではなく、なんだか自分でもよくわからないけれど、不愉快でイライラが募り、ムカツク。自分の周りの人間すべてが許せないというケースも非常に目立っている。」つまり「集合的な他者=世間が許せない。なぜか。自分だけ、不利益を被っている。自分だけ、わりが合わない損をしている。・・・だから自分は復讐してやるんだとなる。その対象は自分が住んでいる生活共同体の不特定の他者に向けられている。矛先は世間なのだ。だから、まったく接点のなかった人間が犠牲になってしまう。」
このように考えれば、最近頻発している見ず知らずの不特定の人を巻き込む事件の背景が見えてくるように思われる。